2015年に放送され、大きな話題を呼んだドラマ版『DEATH NOTE』。
原作漫画や映画版があまりにも有名だったため、多くの期待と共にスタートしましたが、放送後には「原作と違いすぎる」「これはひどい…」といった厳しい意見も飛び交い、賛否両論を巻き起こしました。
一体なぜ、このドラマはこれほどまでに物議を醸したのでしょうか?
この記事では、ドラマ版『デスノート』が「ひどい」とまで言われてしまう理由を、原作との「違い」に焦点を当てて徹底的に掘り下げます。
- なぜミサミサは「ブサブサ」とまで酷評されたのか?
- Lの後継者「ニア」に加えられた、衝撃的すぎる設定の違いとは?
- 原作ファンを絶句させた、ドラマオリジナルの「最後」の展開
など、皆さんが抱いたであろう疑問や違和感の正体を、一つひとつ丁寧に解き明かしていきます。
この記事を読み終える頃には、ドラマ版『デスノート』に対する評価の背景が、きっとスッキリとご理解いただけるはずです。
ドラマ版デスノートがひどいと言われる根本理由|原作とのキャラクター設定の違い

※イメージです
ドラマ版『デスノート』に対する様々な意見の中でも、特に多くの方が指摘するのが「キャラクター設定が原作と根本的に違いすぎる!」という点です。
物語の魅力は、なんといっても登場人物たちの魅力に支えられているもの。
その根幹が大きく変わっていたことが、多くのファンを戸惑わせた一番の理由かもしれません。
主人公が凡人?夜神月のキャラクター改変

※イメージです
まず、物語の主人公である夜神月(やがみ ライト)の変更点から見ていきましょう。
原作の月は、誰もが認める「完璧な天才」でした。
全国模試で1位を取り、大学には首席で入学。
容姿端麗でスポーツも万能、そして常に冷静沈着。
そんな彼が、退屈しきった日常の中でデスノートという「神の力」を手に入れたことで、歪んだ正義感から新世界の神「キラ」として君臨していく…というのが物語の骨子でした。
この「天才だからこそ、神の視点に立てると錯覚してしまう」という傲慢さが、月の魅力であり、恐ろしさでもあったわけです。
ところが、ドラマ版の月は「どこにでもいる平凡な大学生」。
特定の夢もなく、居酒屋でアルバイトに励み、地下アイドルのライブに通うなど、非常に親しみやすい、ごく普通の青年として描かれています。
彼がデスノートを最初に使う動機も、親友が高校時代の同級生から脅されるのを止めたい、という同情的なものでした。
この変更は、「もし、ごく普通の心優しい青年がデスノートを手にしたらどうなるのか?」という、新しい視点の物語を描こうとした制作陣の意図があったのだと思います。
実際に、力を手にしたことで徐々に狂気に飲み込まれていく月の姿を、俳優の窪田正孝さんが見事に演じ切ったことは、ドラマ版の見どころの一つとして高く評価されています。
しかし、原作ファンにとっては、この「平凡な主人公」という設定こそが、物語の前提を覆す大きな違和感につながりました。
原作の面白さの核心は、卓越した頭脳を持つ「天才・夜神月」と、世界的な名探偵「天才・L」による、息を呑むような知能戦にあったからです。
「主人公が凡人では、あの高度な頭脳戦は成立しないのでは?」と感じた方が多かったのも、無理はないかもしれません。
原作の天才像とのギャップが指摘されたLのキャラクター改変

※イメージです
月の最大のライバルであるL(エル)もまた、大きな変更が加えられたキャラクターの一人です。
原作のLといえば、目の下の真っ黒な隈、ボサボサだけど特徴的な髪型、常に甘いものを口にし、猫背で独特な座り方をする…といった、一度見たら忘れられない強烈な個性を持っていました。
先に公開された映画版で、俳優の松山ケンイチさんがこのL像を完璧に体現したこともあり、多くのファンの中に「Lといえばこの姿」というイメージが強く焼き付いていたのです。
しかし、ドラマ版のLは、その象徴的なビジュアルが大きく変更されました。
目の下の隈はほとんどなくなり、健康的に見えるほど。
服装も、原作のよれよれのTシャツとは違い、妙に清潔感のある綺麗な白シャツ姿でした。
この全体的にスタイリッシュな雰囲気に、「Lらしさが感じられない」という声が相次ぎました。
内面的にも、原作の「極度の甘党」という設定は薄れ、代わりに「極度の潔癖症」という新しい属性が与えられています。
頻繁に除菌ジェルを使う姿は、これも一つの「変わった癖」ではありますが、原作の奇行が持っていた「俗世間から超越した天才性」の表現としては、少し物足りなく感じたファンが多かったようです。
ミサミサが「ブサブサ」と酷評されたキャスト問題

※イメージです
ドラマ版のキャストに関する批判の中で、特に象徴的だったのが、弥海砂(ミサミサ)役の佐野ひなこさんに向けられた「ブサブサ」という酷評でした。
この批判が広まった背景には、いくつかの要因があります。
第一に、原作のミサミサが華奢でスレンダーなモデルとして描かれていたのに対し、当時グラビアアイドルとして活躍していた佐野さんの健康的なスタイルが、一部の原作ファンの持つイメージと異なって見えたこと。
第二に、映画版で同役を演じた戸田恵梨香さんの評価が非常に高かったため、どうしても比較されてしまったことです。
そして決定的だったのが、「ミサミサ」という愛称と「ブサブサ」という言葉の語呂が非常に近かったこと。
これにより、ネット上では彼女が画面に映るたびにこの言葉が飛び交うという現象が発生し、Twitterのトレンドに入るほどでした。
この一件は、シリアスなドラマの雰囲気を損なっているという意見にもつながり、ドラマのキャスト問題として大きく取り上げられることになったのです。
ニアとメロの統合は最大の問題点か?別人格という衝撃の原作違い

※イメージです
物語の後半、L亡き後にキラを追い詰める後継者、ニアとメロ。
この二人の扱いこそ、ドラマ版における最大かつ最も賛否を呼んだ変更点と言えるでしょう。
原作では、ニアとメロはLが遺した施設で育った、全く別の二人の天才でした。
冷静沈着で知的なアプローチを得意とするニアと、目的のためなら手段を選ばない行動的なメロ。
この二人は、互いを強くライバル視し、反発しあいながらも、結果として二人の力が合わさって初めてキラを追い詰めることに成功します。
「一人ではLを超えられない。二人だからこそ超えられた」というのが、原作第二部の非常に重要なテーマでした。
ところが、ドラマ版ではなんと、この二つのキャラクターが「ニアの中に存在する別人格」として統合されてしまったのです。
メロは、ニアが常に抱えている不気味な腹話術の人形を介して現れる、攻撃的で衝動的な人格として描かれました。
この大胆すぎる改変は、限られた放送時間で複雑な物語をまとめるための策だったのかもしれません。
しかし、結果として独立したキャラクターであったメロは完全に消滅し、原作の感動的なテーマも失われてしまいました。
これには多くの原作ファンが「キャラクターへの冒涜だ」「物語の根幹を破壊している」と強いショックを受け、ドラマ版への評価を決定的なものにしてしまった側面があります。
主要人物の運命も改変!夜神総一郎の結末

※イメージです
その他のキャラクターにも、物語の印象を大きく変える変更が加えられています。
月の父であり、キラ事件の捜査責任者でもある夜神総一郎。
原作での彼は、物語の途中で壮絶な死を遂げます。
しかしその死に際に、彼は息子の月がキラではないと信じながら息を引き取るのです。
この悲劇的な結末は、多くの読者の涙を誘いました。
一方、ドラマ版の総一郎は、物語の最後まで生き残ります。
そして、愛する息子が世界を恐怖に陥れた大犯罪者キラであったという、最も残酷な真実と向き合わなければならないのです。
どちらも悲劇ですが、その質は全く異なり、ドラマ版はより重く、救いのない結末を父親に与えました。

※イメージです
キャラクター設定だけでなく、物語の根幹をなすストーリーや結末、さらにはデスノートのルールまでもが、ドラマ版では大きく変更されていました。
このこともまた、ファンを驚かせた大きな要因です。
物語の導入部から違うデスノートを手にする動機

※イメージです
物語の全ての始まりである「月がデスノートを手にするシーン」。
ここにも、キャラクター設定の違いが色濃く反映されています。
原作では、完璧な人生に退屈していた天才・月が、偶然デスノートを拾い、その力を試すために犯罪者の名前を書き込みます。
そこには、世界を変えたいという歪んだ理想と、自らの力を試したいという好奇心がありました。
一方、ドラマ版では、平凡な大学生である月が、友人がいじめられているのを目の当たりにした後、まるで導かれるようにデスノートを拾います。
そして、友人を救いたいという正義感から、最初の一筆を走らせるのです。
この導入の違いは、主人公の印象を大きく変え、その後の物語全体のトーンにも影響を与えています。
原作ファン絶句…ドラマ版デスノートの全く違う「最後」とは

※イメージです
そして、物語の締めくくりである「結末」。
これもまた、原作とは全く異なる、ドラマ版完全オリジナルのものでした。
原作の結末を覚えていますか?追い詰められた月は、死神のリュークに助けを求めます。
しかし、リュークは「もうお前の負けだ」と冷たく言い放ち、自らのノートに「夜神月」と名前を書き込みます。
デスノートを使った人間は、最後にはそのノートの最初の持ち主の死神に殺される…この摂理に沿った、象徴的な最期でした。
しかし、ドラマ版の月の最期は、なんと「焼死」です。
追い詰められた月を崇拝していた信奉者・魅上照が、錯乱して倉庫に火を放ち、月は炎の中で絶叫しながら命を落とすのです。
死神リュークは、ただその光景を傍観しているだけ。このあまりに人間的で、皮肉な結末には、多くの視聴者が言葉を失いました。
Lのビデオメッセージとは?結末のテーマ性を変えたドラマオリジナル展開

※イメージです
ドラマ版の結末を語る上で、もう一つ欠かせないのが「Lのビデオメッセージ」というオリジナル展開です。
これは、Lが亡くなる前に遺していたもので、月の敗北が決定づけられた瞬間に再生されます。
ビデオの中でLは、自分が死ぬことすらも計画のうちであったと明かし、「キラが捕まった時、それが私の勝ちだ」と静かに宣言するのです。
死してなお、ライバルである月に完全勝利を告げるL。
この演出は、物語を「月とLの個人的な対決」として終わらせるための、非常にドラマティックなものでした。
しかし、原作が持っていた「人間と死神」「正義と悪」といった、より大きなテーマとは少し違う方向性の決着の付け方であり、この点もまた、評価が分かれるポイントとなりました。
【まとめ】デスノートのドラマがひどいと言われる理由と独自の魅力

※イメージです
ここまで、ドラマ版『デスノート』がなぜ一部で「ひどい」とまで言われてしまうのか、原作との数々の「違い」を通じて見てきました。
理由をまとめると、
- 「天才vs天才」という大前提を覆す、キャラクターの根本的な設定変更
- キャストのイメージ問題(特に「ブサブサ」と酷評されたミサミサ)など、ファンの期待を裏切る改変
- ニアとメロの統合など、原作の重要なテーマ性を失わせる大胆なストーリー改変
- 原作とは全く異なる、独自の結末とキャラクターの運命
これらの点が、長年原作を愛してきたファンにとっては受け入れがたい「改変」に映ってしまった、ということなのでしょう。
ただ、一方で、このドラマ版を「原作とは全く別の新しい物語」として捉えれば、違った魅力が見えてくるかもしれません。
平凡な青年が絶対的な力を手にして堕ちていく様を鬼気迫る演技で見せた窪田正孝さんの存在感は圧巻でしたし、「もしデスノートが現代の日本に現れたら」という一つのリアルなシミュレーションドラマとして、見ごたえのある作品であったことも確かです。
原作への愛が深いほど、その違いに戸惑い、厳しい言葉を向けたくなる…。
ドラマ版『デスノート』への評価は、それだけ多くの人が原作を深く愛していることの裏返しなのかもしれませんね。